■ 佐助稲荷神社 |
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石段の続く狭い参道には朱塗りの鳥居や赤い幟が林立し、その石段を登りつめたところに「佐助稲荷神社」は立っています。 社伝によると、源頼朝が伊豆蛭ヶ小島に流されている時、ここの稲荷神が翁の姿で頼朝の夢枕に立ち、平家討伐の挙兵を勧めたといわれ、後に鎌倉幕府を開いた頼朝は、その神霊に感謝し、社を建立。社名は頼朝の幼名「佐殿(すけどの)」を「助けた」稲荷神から名付けられたそうです。 佐助稲荷神社は頼朝の話に由来し、開運出世、縁結びの社として信仰を集めています。 |
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場所:神奈川県鎌倉市佐助2-22-12 |
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■ 銭洗弁財天 |
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巳の年の1185年(文治元)、巳の月、巳の日、巳の刻、頼朝の夢枕に宇賀福神が現れ、「西北の谷に湧き出す霊水をもって神仏に供養すれば、天下は平和に、万民は安楽になるだろう」とのお告げを受けました。頼朝はこのお告げに従って社を建てて祀ったといい、それが銭洗弁財天(宇賀福神社)です。 この霊水で洗い清めた金銭は数倍になってもどってくるという言い伝えがあり、多くの参拝者がお札や小銭をザルに入れて洗う姿が今も絶えません。 |
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場所:神奈川県鎌倉市佐助2-25-16 |
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宇賀福神社(銭洗弁財天)【お寺紹介】 |
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■ 源氏山公園 |
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源八幡太郎義家が後三年の役で奥州出征にあたり、山上に白旗を立てて戦勝祈願したことから、「白旗山」とも呼ばれている源氏山。源頼朝も奥州征伐の戦勝を祈願したといわれ、中央広場には高さ2mの風格ある頼朝像が立っています。 現在、源氏山公園は地形を生かした自然豊かな公園として親しまれ、特に春は桜の名所として多くの花見客が訪れる人気のスポットです。 |
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場所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1・4、梶原5 |
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■ 岩船地蔵堂 |
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源頼朝と北条政子の長女、大姫の守り本尊と伝えられる木造地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂。 大姫は6歳の時、木曾義仲の嫡男・義高11歳の許婚となりましたが、義仲の敗戦後、義高は政略のため頼朝によって12歳で殺されてしまいました。この事件後、幼い大姫は失意のあまり病弱になり、若くして世を去りました。 現在見られるお堂は、2001年に建て替えられたものです。 |
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場所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷3-3 |
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■ 寿福寺 |
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1200年(正治2)、北条政子が僧・栄西を迎えて、夫・源頼朝の菩提を弔うために創建した寿福寺。鎌倉五山の第3位に列せられた大寺院で、禅寺としては鎌倉最古のお寺です。 参道から裏山に回ると、北条政子、源実朝の墓と伝わるやぐら、俳人・高浜虚子、作家・大佛次郎らの墓があります。 ※寿福寺は、総門から山門までの参道は自由ですが、堂宇は非公開です。 |
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場所:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7 |
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寿福寺【お寺紹介】 |
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■ 若宮大路・段葛 |
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源頼朝が、妻・北条政子の安産を祈願して築いた、二ノ鳥居から三ノ鳥居の間を結ぶ参道(かつては一ノ鳥居から三ノ鳥居までありました)。 この参道には、通りの中央が一段高く土盛りされ、また二ノ鳥居では約5mの道幅が三ノ鳥居の前では約3mと遠近法が用いられ、海側から攻めてくる敵に八幡宮が遥か遠くにあるように錯覚させ、防御する工夫がされています。 春はみごとな桜並木となり、「日本桜100選」にも選ばれる桜の名所としても有名な参道です。 |
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場所:神奈川県鎌倉市小町 |
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■ 鶴岡八幡宮 |
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1063年(康平6)、奥州を平定した源頼義が材木座海岸近くの由比郷鶴岡に、京都の石清水八幡宮の分霊を勧請したのがはじまり。1180年(治承4)に鎌倉入りした源頼朝によって現在の地に遷座されました。 祭神は、比売大神、応神天皇、神功皇后。 広大な敷地にはさまざまな社殿が点在し、毎日多くの参拝者が訪れる鎌倉最大の名所です。 |
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場所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 |
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鶴岡八幡宮【お寺紹介】 |
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■ 大倉幕府旧跡碑 |
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1180年(治承4)に鎌倉に入った源頼朝が居を構えて幕府を開き、45年間にわたって武家政治の中心になったところ。200m四方に及ぶ広大な敷地には、寝殿や公文所、問注所、侍所などが置かれていました。 現在は、清泉女学院小学校の脇に石碑が立っています。 |
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場所:神奈川県鎌倉市雪ノ下3-11 |
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■ 源頼朝の墓 |
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源頼朝は、1199年(正治元)、相模川橋の落成供養の帰路に落馬して53歳で生涯を閉じたといわれています。そして死後、頼朝の持仏堂があったこの地に葬られました。 墓は笠石を5枚積み重ねた高さ約2mの石塔。江戸時代に頼朝の子孫にあたる島津重豪によって再建されました。 |
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場所:神奈川県鎌倉市西御門2-5-2 |
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■ 自転車を使わない鎌倉観光コース |
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