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1863年(文久3)、十四代将軍徳川家茂がこの地を視察した際、勝海舟は神戸港が天然の良港であり、国防の要港であることを家茂公に建白し、将軍の許しを得て、小野浜の地に海軍操練所を開設しました。この海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工厰を総合した大規模な組織で、海舟はここに天下の人材を集め、日本海軍の礎を築き、海外発展の基地にしようとしたのです。 |
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実際、坂本龍馬、陸奥宗光、伊藤祐享など、多数の有為の人材を輩出しています。 |
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しかし1864年(元治元)に起こった禁門の変に操練生の一部が反幕軍として参加していたため、操練所が反幕激徒養成の嫌疑を受けて海舟は軍艦奉行を解職され、操練所も1865年(慶応元)3月に閉鎖されました。 |
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この碑は、将軍家茂の威徳をたたえるために、小野浜の操練所に立てられるはずでしたが、状勢が変わり建碑は中止。海舟は友人であった神戸の豪商、生島四郎太夫にこの碑を預け、海舟の意向から一時は生島の邸宅内に埋められていました。 |
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その碑石を掘り出し、1915年(大正4)に諏訪山公園の現在の位置に据えられました。碑は、厚さ60cm、幅1.9m、高さ2.3mの大きな御影自然石で、海舟直筆の碑文が刻まれています。 |
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