兵庫大仏 |
奈良・東大寺、鎌倉・高徳院の大仏と並び、日本三大仏の一つに数えられている「兵庫大仏」。明治24年に建立された初代兵庫大仏は、太平洋戦争の際に金属回収令により解体供出されてしまい、しばらく能福寺に大仏はありませんでしたが、平成3年に多数の協賛で大仏が再建され、天台座主貎下をはじめ、奈良東大寺管長、鎌倉大仏貫主臨席のもと大開眼法要が行われました。 |
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月輪影殿 |
もとは京都東山の月輪御陵にあった九条公爵家(大正天皇の御妃貞明皇后様のお里方)の拝殿で、明治、大正、昭和の歴代天皇陛下が京都に行幸された際には必ず参拝されたといわれる由緒高い建物です。この拝殿を1953年(昭和28)に宮内庁と九条家から能福寺に特別に下賜され、移築されました。現在は能福寺の本堂として用いられています。 |
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平相国廟 |
平清盛公の遺言に従って遺骨は能福寺寺領内の八棟寺に納められ、平相国廟が建立されました。しかし平家滅亡とともに破壊。以後再建されることはありませんでしたが、百余年後の1286年(弘安9)、平家一門の栄枯盛衰を憐れんだ時の執権・北条貞時公が、1基の石塔を建て、清盛公の霊を弔ったのが清盛塚十三重塔です。また平清盛公の800年回忌を迎えた1980(昭和55)年には平相国廟が再建されました。 |
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ジョセフ・ヒコの英文碑 |
ジョセフ・ヒコ(浜田彦造)は、日本の新聞の父と呼ばれ、下田港で開国を迫ったペルリ提督の通訳を務めた人物。リンカーン大統領と握手した唯一の日本人でもあります。この碑は、神戸に来た外国人が有名な兵庫大仏へ多数参拝に訪れることから、明治25年ごろ、能福寺第19世住職 加藤慈晃師がジョセフ・ヒコに依頼して、寺の縁起を英文で作ったもので、わが国最初の英文碑であるといわれています。 |
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瀧善三郎正信の碑 |
神戸開港直後の1868年(慶応4)1月、朝廷からの命で西宮の警備のために備前藩が隊列を組んで向かっているところを外国軍艦の水兵数人が横切ったことが発端となって、備前藩と外国軍との間で戦闘状態となった神戸事件。その責任を負って無念の自刀した備前藩士滝善三郎の碑が能福寺に立てられています。 |
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