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水無瀬の地は古くから山水の景勝の富む狩猟地として、多くの都人が来遊し、貴族の別荘が設けられました。 |
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後鳥羽上皇も約20年間に30回も水無瀬へ行幸されており、上皇がこの地を詠んだ「見渡せば 山もと霞む 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ」の和歌が『新古今和歌集』に収載されています。 |
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後鳥羽上皇は、1221年(承久3)の承久の変で敗れ、隠岐島へ配流され、その地で亡くなりました。上皇に使えた水無瀬信成・親成父子は皆瀬(みなせ)御所と呼ばれた離宮跡に御影堂を建て、菩提を弔ったのが水無瀬神宮のはじまりといわれています。 |
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明治時代に入って「水無瀬宮」となり、後鳥羽上皇とともに土佐や佐渡に配流された土御門上皇や順徳上皇も合祀され、1939年(昭和41)に官幣大社となり、水無瀬神宮に改称されました。 |
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水無瀬神宮には、伝藤原信実筆「紙本著色後鳥羽天皇像」(国宝)や、隠岐島でみずから水鏡に法体姿を写して描いたとされる「後鳥羽天皇像」(重要文化財)、「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」(国宝)など、後鳥羽上皇の遺品も収蔵されています。 |
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■ 境内案内 【 水無瀬神宮 】 |
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